親が葬儀に行けなくなるなんて、考えたこともありませんでした。
でもその日、それは突然やってきました。
「やっぱり行けない」
その一言で、当たり前が静かに崩れた気がしました。

不幸の知らせは、いつも突然です。
でもその日、もうひとつ突然だったことがあります。
それはーー
親が葬儀に行けなくなっていたこと。
連絡を受けて、慌ただしく家族で話し合いが始まりました。
「私は行くよ」
母の一言で話は進み、父はいつもの調子で、
「家は守っておくね」
どこか安心感のある"お地蔵父"の一言に、少し空気が和らぎます。
みんなが行く流れになり、いつも通り。
何も変わらないはずでした。
数時間後までは。
「やっぱり、しんどい」
その一言で、全てが変わりました。
行く前提で動いていた私の中で、何かが静かに崩れた感覚がありました。
でもそれは、誰かが悪いわけでもなくて。
ただ、
"できていたことが、できなくなる"
その現実でした。
もともと私も参列する予定だったので、
母の香典を預かり、代わりに想いを届けることにしました。
それが、今の私たちの「参列の形」でした。
こうして両親は、
葬儀への参列を"卒業"しました。
葬儀は思っている以上に、過酷だった
普段とは違う場所。
長時間の緊張。
気を遣い続ける時間。
葬儀は、想像以上に体力も気力も消耗します。
若い頃には当たり前だったことが、ある日を境に難しくなる。
それは、とても自然なことでした。
「行けない」ではなくて
「行かない」という選択
少し前までなら、
「参列するのが当然」と思っていました。
でも今は違います。
家族葬が増え、
弔いの形そのものが変わってきています。
無理をして行くよりも、
無理をしない選択をする。
それもまた、相手を想う形のひとつなのかもしれません。
後日のお参りで見えた、本当の気持ち
後日、両親はあらためてお参りをさせていただきました。
派手さはないけれど、とても静かで、丁寧な時間でした。
その姿を見て思いました。
参列することよりも大切なのは、
ちゃんと想い続けることなのだと。
まとめ
親が葬儀に行けなくなる日。
それは、ある日突然やってきて、でもとても静かに受け入れるしかない現実でした。
これからはきっと。
「行く・行かない」ではなく、
どう想いを届けるかが問われていくのだと思います。
同じように「親の変化」を感じている方へ。
その変化は、思っているよりも静かに、でも確実にやってきます。
気づいたときには、「出来ていたこと」が、できなくなっている。
だからこそ、
今の時間を、大切にしていきたいと思いました。
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